最高裁編

この事件ですでに有罪が確定している佐藤優氏が次のようなことを言っていた(http://news.livedoor.com/article/detail/4996747/:【佐藤優の眼光紙背】なぜ最高裁はこのタイミングで鈴木宗男衆議院議員 の上告を棄却したか?):

最高裁判所は最高政治裁判所でもある。それは、2002年に鈴木宗男追放キャンペーンの中心に立った竹内行夫外務事務次官(当時)が現在、最高裁判所裁判官をつとめている事実からも明白だ。所属する小法廷が異なるなどということは、本質的問題でない。司法試験にも合格していないので、法曹資格ももたず、かつ極めて政治的動きをする人物を行政機関である外務省から受けいれている最高裁判所という組織自体が、「司法権の独立」という名目からかけ離れた組織だということを筆者は指摘しているのだ。


佐藤氏は太字部分のようにばっさり書いておられるが、それはいささか感情的に過ぎないだろうか?

例えば、憲法76条第3項には次のように書かれている:

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」


この条文の意味は大津事件(1891年)を知るとより一層わかるだろう。
大津事件とは、当時訪日中だったロシア皇太子が大津で巡査に襲われた事件である。この際、政府は事態が深刻化することを恐れ、時の大審院長(現在の最高裁長官に当たる)であった児島惟謙に対し、襲った巡査の死刑判決を下させるよう求めた。しかし、児島は「司法権の独立」を主張し、政府の要求を拒んだ。

この児島の行為は多くの人々に称賛されたが、一方で批判をも招いた。実は、児島自身は判決を下す立場にはなかったのである。にも関わらず、児島は積極的に判決に介入し、結果として個々の裁判官が持っている「裁判官の独立」を侵すことになってしまったのである。

司法権の独立」と言うとき、それは立法・行政に対して司法が独立しているという意味である。では、今出てきた「裁判官の独立」とは何であろうか?

「裁判官の独立」とは、他の裁判官に対して個々の裁判官は独立して判断を下すということである。もちろん審議の過程で他の裁判官からアドバイスを受けることはあるだろう。しかし、最終的に判決を下す際にはそれぞれの裁判官の良心に従って下されなければならないのである。例え、全裁判所のトップである最高裁長官であっても、個々の裁判官が判決を下す際に指示を与えることはできない。そのことを規定しているのが上に掲げた憲法76条3項である。

竹内氏は第二小法廷所属であって、今回判決を下したのは第一小法廷である。第二小法廷に所属する竹内氏が第一小法廷の判断に関与することは有り得ないことである。*1

また、佐藤氏は行政機関である外務省から最高裁判事が選ばれるのはおかしいではないかと主張している。だが、その指摘は間違っている。

最高裁はわが国が誇る三審制の一番最後である終審裁判所であり、なおかつ違憲立法審査権によって立法が違憲でないかどうかを決定する立場にある。*2このように、極めて重大な役割を担っているが故に、最高裁には多様な見識を取り入れる必要がある。

現在、最高裁判事には、たたき上げの裁判官出身者以外に、検事・弁護士・行政官(現在は旧労働省出身の人が任じられている)・外交官・学識経験者(大学教授)が任じられている。実際の所、最高裁判事の資格は、裁判所法第41条に「識見の高い、法律の素養のある年齢四十年以上の者」とされているため、司法試験に合格している必要はない。

しかし、いわゆる法曹三者と呼ばれる裁判官・検事・弁護士が参加し、学識経験者に最高裁判事になる資格があるのはわかるが、行政官・外交官にはその資格はないのではないか?

ここで理解すべきなのは、先に述べたとおり、最高裁には多様な見識が求められているのである。「多様な見識」には、法律を解釈する人だけでなく、実際に運用している人の声も入る必要があるだろう。行政官枠は内務を代表し、外交官枠は外務を代表している。行政官出身者は国内法を運用してきた経験を活かし、外交官出身者は国際法を運用してきた経験を活かす。

官僚出身者が司法のトップに座っていることは奇怪かもしれないが、彼らは法律運用のプロである。彼らの声を無視して解釈優先になった途端、おそらく最高裁は非現実的な判決ばかりを下すであろう。そうなることは日本にとって大きなマイナスになると私は思う。

*1:もし何らかの関与があったならば、それは「憲法の番人」たる最高裁判事が自らの守護すべき憲法が保証する「裁判官の独立」を侵したことになる。

*2:厳密には違憲立法審査権は全裁判所が有しているが、最終的に違憲かどうかを決定できるのは終審裁判所である最高裁だけである。