内閣不信任案に関する批判

 自民党公明党が内閣不信任案を出した。内閣不信任案を出すのは、野党の常套手段であるから特に驚くに値しないが、今回問題なのは、1. 未曾有の大震災があったにも関わらずの提案であること、2. 小沢派を中心に造反議員が多数出る見込みであること、の 2 点であろう。
 しかし、本稿では、これらについては深く述べない。今述べておくと、1. については、今回の大震災によって、不信任案を提出する野党の権利も、首相の解散権も「法的には」制限されていない。また、2. については、むしろ造反せずに今後も面従腹背するくらいなら造反した方が良いと思う。面従腹背するぐらいなら、さっさと党を割るべきだ。


1. 「倒閣」のための内閣不信任案をやめよ
 だが、ここで述べたいのはそうした政局論ではない。まず、述べたいのは、内閣不信任案が単なる「倒閣」の手段にされてしまっていることである。不信任案可決後に誰を首相に据えるかという将来的見通しも示すこともなく、ただ「倒閣」という旗印の下に、国会議員が自らの信念や政策をかなぐり捨てて、結集するのである。まさに「倒閣」のための内閣不信任案なのである。
 これがどういった結果を生むかについては歴史に学ぶのが早い。すなわち、1932年9月12日のワイマール共和国国会において、パーペン内閣を倒すために、イデオロギー的に相反する共産党とナチ党とが手を結んだのである。その結果が、翌1933年1月のヒトラーの首相就任であったことは言うまでもない。
 この歴史的教訓を受け、現在のドイツ憲法ボン基本法)では、「連邦議会が連邦宰相に対して不信任を表明できるのは、その議員の過半数をもって後任を選出するとともに、連邦大統領に対しては連邦宰相の罷免を要請した場合に限られる。」(第67条)と定めている。つまり、後継首相を選出しなければ不信任案を出せないのである。
 私は、ここで日本国憲法を改正しドイツに倣えと言っているのではない。その「精神」を学べと言っているのである。単なる「倒閣」のための内閣不信任案は、さらなる混乱しか生まない。内閣不信任案という最終手段へ同調する政治家は何人たりとも、今後の国政をどの方向へ持って行きたいのかに責任を負わなければならない。それがいみじくも憲法前文によって「国民の厳粛な信託」によって国政を任された国会議員としての使命である。その責めから逃れようとする国会議員は、国民から背を向けている以上、国民に対する反逆者と言わざるを得ない。


2. 国民を手段として扱うなかれ
 国会議員は、一体、主権者たる国民を何であると考えているのか?彼らのしたいことといえば、自分が権力を握るか、そのおこぼれを得るべく追従するかのどちらかである。彼らは、選挙によって国民から選ばれたにもかかわらず、彼らのしたいことの中に「国民」という文字は存在しないのである。
 いや、確かに「国民」という文字は彼らの考えにもあろう。「いかにして国民の目を欺くか」という限りにおいてであるが。彼らは、選挙になったら当選するためには嘘をつくこともいとわない。にも関わらず、選挙が終わると、途端に、権力追求(とその追従)を始めるのである。これを国民の側から見ると、ルソーが『社会契約論』の中で言ったように、「彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は奴隷となり、無に帰してしまう」という状況なのである。
 現在、国会議員は国民を手段としてしか考えていない。そうであってはならない。国会議員の使命とは何か?主権者たる国民のために奉仕することである。つまりそれは国民を目的として扱えということである。


3. メシア待望論をやめよ
 民主党からの離党を表明した横粂議員はその理由として「党利党略、私利私欲の政治に耐えられず、政党政治、議院内閣制の限界も感じた」と述べていた。「政党政治、議院内閣制の限界」。こうした認識がどこまで正しいかは別として、これほど危険な発言もない。反政党政治一党独裁へ、反議院内閣制は個人独裁へ向かう危険性をはらんでいるからである。
 しかし、こうした意見は、横粂氏に限らず、小泉純一郎以降の日本政治において、広く国民の間に蔓延しているように思われる。つまり、その形態が「大統領制」であれ「首相公選制」であれ「個人崇拝」であれ、「強いリーダー」を人々が求めているように思われるのである。
 だが、それもそろそろ終わりにしなければならない。まず、なるほど国民は「強いリーダー」を求めているかもしれないが、それも代議士先生の手にかかると「選挙で勝てるトップ」とされてしまうのである。「選挙で勝てるトップ」が必ずしも良いリーダーでないことは、1年ごとに首相の首が(衆議院を解散することもなく)すげ替えられていった自民党政権末期を思い出せば十分であろう。
 さらに、「選挙に勝てる」という意味ではなく、本当の意味で強いリーダーシップを求めるにしても、そんな政治的天才はそう毎年現れるものではない。カエサルビスマルクが歴史に名を留めているのはなぜか?彼らが類い希なる手腕をもった傑出した政治的天才だったからである。もし、今の日本人がそうした政治的天才を求めているなら、今の国会議員にそれに値する人間は一人も居ないことは断言して良い。
 そもそも、個人プレーに依存する体制は長続きしない。誰がトップに立とうと、大きく揺らぐことのないようにしなければならない。そのためには、国民が変なメシア待望論をやめ、個人プレーに依存しない堅固な体制を作り直すよう政治家に求めることが肝要である(その際、官僚組織を重視しなければならないのは言うまでもない)。


4. まとめ
 以上が最近思ったことである。1. において、内閣不信任案について述べたが、それは 2. と非常に深く関連している。すなわち、政治家の使命や責任について述べているからである。一方、3. においては、国民の政治に対する姿勢について述べた。
 この文章で、私は民主党自民党いずれも批判していることに気をつけていただきたい。むしろ、言うならば、全政党に対して批判しているつもりである。
 また、こうした政治家を選んだ責めは当然国民にもある。その観点から、3. はもっと深く述べるべきであったかもしれないが、それはここではやめておいた。