「反原発」という「空気」

 今書くと危険な気がするけれども、思ってしまったのだからメモしておく。
 

 はじめに

 
 まず、自分のスタンスをはっきりさせておくべきだろう。私は、原発について今後も維持すべきであると考える。もちろん、太陽光発電風力発電をはじめとする自然エネルギーの割合を増やしていくことには賛成である。
 しかし、たとえば、今すぐに全原発を廃止するような意見にはとても賛成できない。そうした意見は、あまりにも現実的でない。最も現実的な考えは、まず、なぜ 3.11 が発生したのかを検証し、全原発が安全かどうかを確かめ、その上で、他の自然エネルギーの普及を推進しつつ、原発そのものについても推進していくことであろう。
 つまり、私の考えは、「原発に依存しない社会を目指す」という菅前首相の表現を額面通り受け取ったものであり、決して、「脱原発」「滅原発」「原発ゼロ」ではない。そうしたスタンスを宣言した上で、本題に入りたい。
 3.11 の事故発生後、当然のことながら、原発政策への批判が高まっている。それは、東電の事故に対する対応への批判にはじまり、最終的には、原発業界そのものに対する批判にまで及んでいる。たとえば、原発業界と経産省、大学、メディアが結託して、世論を原発推進へと扇動してきたという批判である。
 今、私は、そうした批判が正しいかどうかについては追究しない(判断するだけの知識もない)。しかし、私には、現状は過去と同じ方向に行ってしまっている、むしろさらに悪化しているように思えてならない。


 現在 ―「空気」の存在―


 現在、「原発を維持すべき」という意見を大ぴらに言うことは難しい。なぜなら、それが世の中の「空気」だからである。たとえ、心の中で「原発を維持すべき」と思っていたとしても言えないだろう。ましてや、「原発を推進すべき」などとは言えない。*1原発に限ったことではないが、時として、私たちは、社会の「空気」を読んで、意に反した姿勢をも取ることを求められる。とりわけ、原発事故のように社会的に大きな事件・事故が発生したときにはそうである。*2そうした場合には、とかく、社会として一致団結して対応することが主張され、その流れに抗することは不可能である。
 
 過去
 
 一方、過去においてはどうであっただろうか?たしかに、原発業界と癒着したメディアは、原発に反対する情報を意図的に流さなかったかもしれない。原発業界と癒着した大学は、原発に反対する学者の出世を妨害したかもしれない。しかし、原発に賛成するように強制する「空気」があっただろうか?
 過去の方がよかったとは思わない。過去にしても、自由に発言できなかった人は居たはずだからである。だが、社会全体に「空気」という無言の圧力が存在していたかどうかは重要である。
 というのも、これほど恐ろしいものはないからである。人間が本来持っているはずの理性的な判断能力を、母集団から追い出されたくないという非理性的な本能が妨げるからである。いわば、人間であることを人間自身が止めてしまうのである。その結果、どのような間違いを人間が起こしてきたかは、歴史を見れば明らかである。

 
 今後

 
 では、今、我々はどうすべきなのだろうか。*3まず、冷静になることである。原発反対派の中には、今まで抑圧されてきたために、しきりに権力批判をしているとしか思えない人が居るが、そうした行動は建設的ではない。その上で、あの事故の原因は何だったのかを考えるべきである。教条的な主義主張の言い合いではなく、あくまでも議論に徹しなければならない。そして最後に、今後、どうするべきかを考えなければならない。
 以上のことは、原発推進派にも、反対派にも、共通して言えることである。もちろん、誰に責任があるかを問うことは重要であるが、それは単なる「人民裁判」「吊し上げ」であってはならない。自らの主義主張に拘泥せず、多様な意見に寛容であることが今こそ求められている。

*1:近年、人と人との「つながり」を重視する風潮があるが、そうした点からも言いにくいであろう。

*2:たとえば、9.11 のテロを思い浮かべても良いだろう。あのとき、アメリカ国民はほとんどが「テロとの戦い」に賛成した。

*3:事故の収束は言うまでもない。