カンニング問題の真の原因


 京大をはじめとする有名大学の入試で発覚したカンニング事件。携帯電話を使いインターネットで解答を得ようとした行為が、これまでになかったために問題となっているようである。
 もちろん、カンニング行為自体は悪いことであり、それに対して異議を挟もうとは思わない。だが、どうも世論がおかしな方向に行ってる気がするので一文認めておこう。
 当初、容疑者が逮捕される辺りまでは、「カンニング行為を行った本人が悪い」という論調が強かったように思われる。しかし、容疑者が逮捕され、動機や手口などが明らかになるにつれて、「カンニングを防げなかった大学側が悪い」という論調に変化しつつあるように思われる。
 もちろん、実際にカンニングが行われた以上、大学側の監督体制に不備があったことは認められなければならない。しかし、果たして、それは、カンニング行為を行った容疑者以上にバッシングを浴びなければならないことだろうか?(京大にはこの件について120件を越える電話やメールが寄せられ、その大半が大学側を批判するものだという。)
 そもそも、大学入試において、受験者は「その大学に入りたい」という思いで受験を申し込み、大学側はそれを審査する立場にある。誤解してはならないのは、あくまでも、大学側が受験者よりも上の立場にあるのだ。
 一方、大学側も「できるだけ優秀な人材に入ってもらいたい」と考える。その結果、大学側は、受験者が試験会場で自身の持つ最高の知力を発揮できるよう配慮する。受験者を必要以上に邪魔したくないという目的の下、カンニング行為に甘くならざるを得ないのが現実であろう。実際、自分の入試を振り返ってみても、そこまで試験監督のプレッシャーは感じなかったし、監督者によっては、緊張をほぐすような言動をする人さえ居た。
 つまり、これまでの日本の大学入試は、受験者が緊張した面持ちで受験し、大学側は受験者に配慮しあまり厳しく取り締まらないという、極めて性善説的な麗しきものであったと言えよう。大学側が性善説的立場に立っていた以上、カンニングを防げなかったのはある意味、仕方のないことだったのではないだろうか?
 では、本当の問題点は何なのか?私は、大学の権威失墜に尽きるのではないかと思う。大学側の監督体制の問題というよりもむしろ、受験する側の意識の問題なのだ。
 今更言うまでもなく、大学は最高学府である。義務教育 9 ヶ年、高校 3 ヶ年などすべての教育課程の頂点にあるのが大学だ。この大学の権威をはっきり認識している受験生がカンニング行為に及ぶであろうか?仮にカンニングの助けを得て合格し入学しても、それは自らの学舎に対する冒涜になろう。そのことに考えが至るならば、果たしてカンニング行為をするであろうか?
 つまるところ、大学の権威が「最高学府」から単なる「就活予備校」へと堕落していることが真の原因ではないか?受験生にとって、大学で学ぶことよりも、大学に入学し大学の名を使って就職活動をすることの方が大事なのである。そこに、大学への畏敬の念など存在しようがない。だから、平然と大学入試でカンニングができるのだ。
 大学の権威が「就活予備校」に成り下がった原因は、もちろん経済状況もあろう。だが、学生側が大学に「学問をすること」ではなく「就活で有利になること」を求めるようになり、大学側もそれに就活支援という形で答え、そしてこうした関係を社会全体が促進してきたことが真に問題である。こうした悪循環を問題だと思わないならば、第 2 のカンニング事件はいつでも発生しうる。
 今回の事件を単なる「カンニング」として捉え、あまり騒ぎ立てるのは問題だという論調もある。たしかにそれは一理ある。だが、今回の事件を機に、最高学府である「大学」とは本来どうあるべきなのか、というところを考えるべきなのではないかと思う。